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<title>歴史上の人物【明治時代の人物】</title>
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<description>歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Tue, 26 Oct 2010 21:07:21 +0900</lastBuildDate>

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<title>明治時代の人物について</title>
<description><![CDATA[明治維新によって、それまでの江戸幕府の幕藩体制から明治政府による政治に転換したということもあって、歴史上、語り継がれる人物が多いですね。
<br /><br /><br />
歴史だけではなく、ドラマや映画、小説などでモデルにされる人物も多く、明治時代の人物の名前は、一般にも浸透していると言えます。
<br /><br /><br />
批判もありますが、江戸から短期間に西欧の列強国に並ぶような国家を築き上げたことは、西洋をはじめ諸外国からは「奇跡」と評価されています。アジアでもモデルケースされたりしました。
<br /><br /><br />
<img alt="岩倉使節団" src="http://wiki.yahooyahoo.info/200px-Iwakura_mission.jpg" width="199" height="158"/><br />
【岩倉使節団。右から大久保利通、<br />
伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允】
<br /><br /><br />
この歴史上の人物【明治時代の人物】infoでは、政治だけではなく、文化などで名前を残した歴史上の人物を紹介する予定です。特に問題のないかぎり画像や地図なども利用したいと考えております。
<br /><br />
簡単なエピソードなどもまじえて人物にせまることができれば幸いだと考えております。
]]></description>
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<pubDate>Tue, 26 Oct 2010 21:07:21 +0900</pubDate>
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<title>西郷隆盛とは</title>
<description><![CDATA[歴史上の人物として絶大な人気を誇るのが、この西郷隆盛です。
<br /><br />
小説やドラマ、映画と引っ張りだこですよね。
<br /><br />
「維新の三傑」の一人として、明治維新で活躍した人物です。明治維新の時代にはよくあったことですが、もともと薩摩藩の下級武士で、自分の才覚だけで活躍した人物とも言えます。
<br /><br /><br />
教科書やフィクションの世界では、大柄な体格と温厚な顔で親しまれていますね。
<br /><br />
<img alt="西郷隆盛" src="http://wiki.yahooyahoo.info/Takamori_Saigo.jpg" width="326" height="460" />
<br />
出典：エドアルド・キヨッソーネによる西郷隆盛のコンテ画。ただし、キヨッソーネは西郷の顔を見たことがない。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2009/12/post_2.html</link>
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<pubDate>Sat, 26 Dec 2009 22:51:40 +0900</pubDate>
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<title>西郷隆盛像は本人ではない</title>
<description><![CDATA[西郷隆盛像ほど、有名な人物像はないのではないかと思うくらい有名な銅像が、東京都台東区上野の上野公園にあります。<br /><br /><br />


待ち合わせ場所としても有名で、西郷さんの足下にはいつも何人もの人たちがいます。<br /><br /><br />


この西郷隆盛像は高村光雲の作（傍らの犬は後藤貞行作）で、1898年12月18日に東京上野恩賜公園（当時上野公園は東京上野恩賜公園という名前でした）で除幕式が行われた。
<br /><br /><br />

ですが、この西郷隆盛像、本人に似ていないというのは大変有名なことらしいです。
<br /><br /><br />

というよりも、経緯が複雑なのですが、最初に西郷隆盛の肖像画から説明しましょう。
<br /><br /><br />

「西郷隆盛ってどんな顔か思い浮かべてみて」
<br /><br /><br />

と聞いたら、おそらく１０人中９人はそれを思い浮かべるであろうあの顔。
<br /><br /><br />

そう、教科書や資料集に載っているあの顔ですね。
<br /><br /><br />

あの肖像画を描いたのがキヨッソーネというイタリア人画家であることは大変有名です。
<br /><br /><br />

しかし、キヨッソーネ自身は西郷隆盛と面識がなかったのです。
<br /><br /><br />

しかも西郷隆盛本人の写真もありませんでしたから、仕方なく（かどうかはわかりませんが）、西郷隆盛の弟である従道と従弟の大山巌の顔つきを合わせて描いたそうなのです。
<br /><br /><br />

つまりこの時点でもう本人ではないわけです。
<br /><br /><br />

それをもとに銅像を作ったからあーら大変、全くの別人になってしまったわけです。
<br /><br /><br />

ちなみに西郷隆盛像の除幕式に招待された西郷夫人の糸子さんは、銅像を見て「宿んし（うちの主人）はこげんなお人じゃなかったこてえ」と驚き不機嫌になったといわれています。
<br /><br /><br />

私なんかはこの話を聞いて、「ああ、大山巌ってこんな感じだったんだ」と別の解釈をさせていただきました（笑）
<br /><br /><br />

だって、大山巌って、名前はとても有名なのに、どんな顔だったかはあまり知られていないですよね？]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_63.html</link>
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<pubDate>Sun, 24 Feb 2008 17:43:57 +0900</pubDate>
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<title>田中正造と渡良瀬遊水池</title>
<description><![CDATA[栃木県には足尾銅山がありました。<br /><br /><br />


江戸時代には国が管理していたのですが、明治時代になって官営工場が払い下げられるようになると、民間（古河財閥の前身）に払い下げられました。<br /><br /><br />


20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した銅山ですから、かなり優秀な鉱山だったといえるでしょう。<br /><br /><br />


田中正造というと、公害と闘った人というイメージが強いですが、なぜ科学の進歩していなかった当時に、公害に目を向けたのでしょう。<br /><br /><br />


最初は、地元農民もそれが公害（もちろん公害という言葉もしらなかったでしょうが）であることには気づかなかったようです。<br /><br /><br />


ただし、足尾銅山から流れている川が洪水になると、その年の田畑の収穫がガクンと減る。それどころか、どうも育たない。そういうことに気づいてはいたのです。<br /><br /><br />


しかし、農民たちにはどうすることもできませんでした。<br /><br /><br />


それを見た田中正造は、どうも洪水になることと、作物の不出来には関係があるのではないかと思ったらしいのです。<br /><br /><br />


田中正造は衆議院議員になり、やっとのことで、国に現状を訴えます。しかし、なかなか耳を貸してもらえません。<br /><br /><br />


それでも、訴え続ける田中正造のために国が起こした行動は、遊水地を作ることでした。<br /><br /><br />


遊水地を作れば、洪水が防げるからよいだろう、というのが明治政府の考えでした。<br /><br /><br />


しかしながら、遊水地を作るということは大きな池を人工的に作ることと一緒ですから、遊水池を作るために水の中に沈む村が必要でした。それが谷中村です。<br /><br /><br />


田中正造が訴えたかったことは、付け焼き刃の対策ではなくて、足尾銅山から流れてくる有害物質（カドミウムや硫酸など）を出さない政策を講じなければ、それでは根本的解決にはならないと言いたかったのです。<br /><br /><br />


しかし、世は富国強兵政策のまっただ中。国はそんな地方の名も知らぬ場所のことには関心がありません。遊水池を作ることが、国の精一杯の関心だったのです。<br /><br /><br />


もう国に頼っているだけではダメだと思った田中正造は、明治天皇に直訴します。<br /><br /><br />


普通でしたらこういった行為はかなりの重罰なのですが、精神的病であるという判断をされ、罪は軽くて済みました。<br /><br /><br />


田中正造はそれ以後も活動を続けます。それも私財を投げ打っての活動ですから、田中正造が亡くなったときには、本当になんにも残らなかったと言われています。<br /><br /><br />


持ち物といえば、いつも持ちあるく布袋の中にちり紙が少々。それが田中正造の最後でした。<br /><br /><br />


こういった田中正造の活動を、後世の人たちは「最初に公害に立ち向かった人」と言うようになりました。<br /><br /><br />

渡良瀬遊水地（地図を縮小すると分かりやすいです）<br />
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2008 15:49:40 +0900</pubDate>
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<title>島村抱月の自然主義理論</title>
<description><![CDATA[「ありのまま主義」「無解決無理想主義的現実主義」の理論持った島村抱月（1871から1978年）は、日本自然主義最大の評論家として知られている。
<br /><br />

のちに新劇運動家となり、女優の松井須磨子と「芸術座」を組織したことから、どちらかというと、今では演劇家、演出家として有名かもしれない。
<br /><br />

島村抱月の自然主義理論の理論的到達は以下の五行に集約されると言われている。
<br /><br />

「在るがままの現実に即して
全的存在の意義を髣髴す
観照の世界也
味に徹したる人生也
此の心境を芸術といふ」
<br /><br />

これは「近代芸術之研究」からの引用である。
<br /><br />

島村抱月は明治期に「文芸上の自然主義」「自然主義の価値」「近代文芸之研究」（いずれも評論）を残している。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_61.html</link>
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<pubDate>Wed, 13 Feb 2008 07:37:00 +0900</pubDate>
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<title>言文一致</title>
<description><![CDATA[小説の会話の部分に口語体を使用する書き方自体は江戸時代からあったのですが、文章表現を口語にする運動が始まったのは、明治初年からと言われています。<br /><br /><br />


多分に文明開化の影響もあったと思われますが、明治時代の言文一致を語るうえで欠かせない小説家は、二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉の三人です。<br /><br /><br />


「浮雲」「あひびき」などの作品で知られる二葉亭四迷は、内容と表現の一致を求めようとする作家的自覚から、小説の地の文を「だ」調で書き表しました。<br /><br /><br />


これは、小説文体上の一大革命と言えるものでした。<br /><br /><br />


同じ頃、「武蔵野」「胡蝶」らの作品で有名な山田美妙は「です」調の言文一致体を使って小説を書いていたのですが、１９２０年代以降は再び雅俗折衷体が盛んになってきます。<br /><br /><br />


そういった経緯で言文一致体が復活するのは、尾崎紅葉が「多情多恨」（明治２９年）などで「である」調が洗練されたものとなったあとのことです。<br /><br /><br />


明治４０年代に入って、近代小説唯一の文体として確立して、白樺派の作家たちによって完成を見ることになります。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_60.html</link>
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<pubDate>Wed, 13 Feb 2008 07:20:28 +0900</pubDate>
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<title>自然主義に対する永井荷風の態度</title>
<description><![CDATA[当初ゾライズムに傾倒し、自然主義的作品を書いた永井荷風であるが、五年間にわたるアメリカ、フランスでの海外生活ののちには明確な反自然主義者となった。<br /><br /><br />


その永井荷風の自然主義に対する態度は、「新帰朝者日記」に書かれているので、それを下に引用することにする。<br /><br /><br />


今日若い書生の頻に称道する自然主義の芸術の如きは、到底吾々の了解に得られぬものである。彼らは美辞麗句を連ねて微妙の思想を現はすことを虚偽だとか遊戯だとか云つて此れを卑むらしく思はれるが、文学の真髄はつまる処虚偽と遊戯この二つよりほかにはない。それを卑むならば、寧ろ文学に関与（たずさ）はらぬ方がよいのである。<br /><br /><br />


このようにかなり厳しい口調で、自然主義者の書生について述べている。<br /><br /><br />


ちなみに永井荷風は森鴎外死去の後、森茉莉の後見人になった人物としても有名である。まま、いってみれば「おまりをひとりで置いていく（死ぬ）のは大変心配だから、私が死んだあとはどうかおまりの面倒を見てやってほしい」と森林太郎が娘のその後を託したとでもいえばいいかな。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_59.html</link>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 04:25:02 +0900</pubDate>
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<title>ゾライズムと自然主義</title>
<description><![CDATA[ゾライズムとは、フランス自然主義の作家エミール＝ゾラの説いた理論で、人間の性格形成における「遺伝と環境」を重視するもの。<br /><br /><br />


ゾライスト時代の小杉天外には「はつ婆」（明治３３）、永井荷風「地獄の花」（明治３５）などの作品がある。<br /><br /><br />


これらを日本では前期自然主義と呼ぶこともある。<br /><br /><br />


ヨーロッパの自然主義が科学的、実証的に国家社会に、目を向けているのに対し、日本の自然主義は個我を個人の日常生活の中に追い、その結果無思想、無解決という虚無的なものになってくる。<br /><br /><br />


こういったヨーロッパとの相違から、日本における自然主義は特に「日本自然主義」と言われるようになる。<br /><br /><br />


この立場からだんだん諦観的な客観描写に傾いていき、いわゆる「私小説」を生み出すことになったのである。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_58.html</link>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 04:09:46 +0900</pubDate>
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<title>大日本帝国憲法の特色</title>
<description><![CDATA[1889年に発布された大日本帝国は天皇が国民に下付するという形で制定された欽定憲法である。<br /><br /><br />


大日本帝国憲法では主権が天皇にあることを基本として、官制の制定、文武官の任免、宣戦・講和の決定と条約の締結、緊急勅令の発布・議会の召集・衆議院の解散権などは天皇大権とし、議会の関与できない事項になった。<br /><br /><br />


天皇大権の中心をなす陸海軍の統帥権は議会、政府からも独立することになった。<br /><br /><br />


政府の官吏は天皇の官吏であり、国務大臣も天皇に責任を負うもので、議会と国民に対する責任は明確にされていなかった。議会にかけることなく発布できる命令の範囲も広かった。<br /><br /><br />


議会は、特権階級（皇族、華族、勅撰議員など）から構成される貴族院と、制限選挙で選ばれる公選議員から構成される衆議院があった。<br /><br /><br />


しかしながら、衆議院には予算の先議権があるだけで、貴族院と権限はかわらなかった。<br /><br /><br />


国民の基本的権利として信教の自由、言論集会結社の自由が明文化されたものの、どれも法律の範囲内と制限がつけられた。（これを法律用語で「法律の留保」という）<br /><br /><br />


つまり、法律の改定によって、国民の権利はいかんともすることができたのである。（もちろん権利の削除の方が多かった）]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_57.html</link>
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<pubDate>Fri, 08 Feb 2008 05:15:46 +0900</pubDate>
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<title>ポーツマス条約と日露戦争の影響</title>
<description><![CDATA[ロシアと十分に戦う国力を有していなかった日本は、国民生活もしだいに苦しくなっていった。ロシアもまた国内で皇帝セイジに反対する革命運動がおこり、戦争の継続が難しくなってきていた。<br /><br /><br />


他方アメリカ合衆国は中国進出をもくろんでいたので、ロシアか日本の一方的な勝利を望んでいなかった。<br /><br /><br />


そこで、アメリカ合衆国大統領セオドア＝ルーズベルトが講話を仲介することになった。<br /><br /><br />


日本にもアメリカのもくろみは分かっていたのだが、これは渡りに舟の状態だった。それくらい日露戦争後半は苦戦を強いられていたのである。<br /><br /><br />


講和条約はアメリカ合衆国のポーツマスで開かれ、1905年9月、ポーツマス条約が結ばれた。<br /><br /><br />


ポーツマス条約の内容は以下のようなものだった
１　ロシアは、韓国における日本の優越権を認める。<br /><br />

２　遼東半島南部の租借権や南満州の鉄道の権利を日本に譲る。<br /><br />

３　樺太（サハリン）の南半分を日本の領土とする。<br /><br />

４　沿海州、カムチャッカ沿岸の漁業権認める。<br /><br /><br />


上の条約内容を見ても明らかなように、日露戦争においては一応日本が戦勝国ということにはなったが、賠償金がまったく得られなかった。日清戦争とは大違いである。<br /><br /><br />


ポーツマス条約で賠償金がまったく得られなかったことが分かると、日比谷焼き打ち事件（1905年9月）など、講和に対する反対の暴動運動が起こった。<br /><br /><br />


しかしながら、南満州の資源が入るようになったことから、それまで軽工業中心の産業だったものが重工業の発達をみ、市場も広がった。<br /><br /><br />


日露戦争に勝利したということで、日本の国際的地位があがったが、反面、それ以後は帝国主義的な発展をなすことになる。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_56.html</link>
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<pubDate>Fri, 08 Feb 2008 05:06:26 +0900</pubDate>
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<title>松方デフレ政策と寄生地主制度</title>
<description><![CDATA[地租改正で土地私有権の確立という前提が満たされたわけだが、その後に起こったインフレで物納小作料と金納地租との差額が生まれることになった。<br /><br /><br />


物納小作料と金納地租の差額収入を増やしてきた地主が、松方デフレ政策で没落した農民の土地を手に入れるようになったのは必然のなりゆきである。<br /><br /><br />


その後財政が安定して近代工業が発展するとともに、小作米販売の利益も増大し、ますます収入を増やしてきた地主は、小作料収入に依存する寄生地主としての支配を完成させたのであった。<br /><br /><br />


1889年に大日本帝国憲法が発布され、明治憲法体制は明治維新で成立した藩閥官僚の支配を、寄生地主を中心とする地域有力者を社会的基礎に据えて編成することによって、安定させたものといえる。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_55.html</link>
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<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 00:12:26 +0900</pubDate>
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<title>農村の保守化</title>
<description><![CDATA[国会開設を目前にして、政党再興と旧民権派結集をめざす大同団結運動が1886年に起こった。<br /><br /><br />


翌年には条約改正問題の紛糾を機として、地租軽減、言論集会の自由、外交失策の挽回を要求する三大事件建白運動起こることになる。<br /><br /><br />


三大事件建白運動で自由民権運動の再建を図ろうとしたのだが、政府は欽定憲法（大日本帝国憲法）の発布を控えて、1887年末には戒厳令同様の体制を整えながら、保安条例を発し、一挙に弾圧した。<br /><br /><br />


こういった政局の中で、農村では寄生地主制が発展することになる。<br /><br /><br />


1890年代半ばには寄生地主が農地と農家のおよそ半分を支配するようになり、農業の支配的な生産関係として確立をみる。<br /><br /><br />


これにより、農村は保守化し、1889年の大日本帝国憲法発布後の明治憲法体制を安定させることにもなる。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_54.html</link>
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<pubDate>Tue, 05 Feb 2008 03:00:57 +0900</pubDate>
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<title>日露戦争後の労働運動</title>
<description><![CDATA[日露戦争では日清戦争とは違い、賠償金も得られなかったので、財政の重圧は戦後も続いた。<br /><br /><br />


鉄道国有法の公布や南満州鉄道株式会社の発足（ともに１９０６年）は、一時的に戦時景気を引き延ばしたが、１９０７年から戦後恐慌がひろがり、慢性的な不況に陥っていく。<br /><br /><br />


そんな中で労働運動も活発化するが、日露戦争以前は熟練工中心の労働運動だったものが、日露戦争後になると１９０７年の足尾暴動のように、一般労働者が会社と直接対立する争議ように、状況が様変わりしてきた。<br /><br /><br />


民衆の不満の声が高まる中で、日露戦争中も「平民新聞」を発行して反戦を唱えていた社会主義者が１９０６年に初めての合法政党である日本社会党を結成するが、弾圧が強化されて合法活動が困難な状況に追い込まれていった。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_53.html</link>
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<pubDate>Sat, 02 Feb 2008 23:12:32 +0900</pubDate>
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<title>立憲政友会</title>
<description><![CDATA[伊藤博文は、地方の有力者や都市の実業家を参加させて、総裁の統率力の強い政党を作ろうと計画した。<br /><br /><br />


伊藤派の官僚もそれに賛同を示し、また、衆議院での多数確保を目指す旧自由党系の憲政党が吸収されるかたちとなって、１９００年に結成することになる。<br /><br /><br />


これは国会期成同盟以来の革命政党の伝統に別れを告げることも意味していた。<br /><br /><br />


やがて日露戦争がおこると、それ以後の国内政局において、衆議院の多数派として政局安定に貢献し、体制政党の機能も果たすようになっていった。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/02/post_52.html</link>
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<pubDate>Sat, 02 Feb 2008 23:05:15 +0900</pubDate>
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<title>坂本龍馬はどんな人？</title>
<description><![CDATA[歴史上の人物というのは多かれ少なかれ作られたイメージというのが先行するものですが、その中でも最たる存在が坂本龍馬ではないかと思われます。<br /><br /><br />


坂本龍馬というと、日本人ではまず知らない人はいないというほどの有名人物ですが、この人の実像というのは不可思議なほど謎に包まれています。<br /><br /><br />


しかしながら、俳優の武田鉄矢さんをはじめとし、坂本龍馬に影響を受けている方はたいへん多くいます。<br /><br /><br />


坂本龍馬は編み上げの革靴を履いていたことでも有名ですが、それに影響を受けて大学時代にアルバイト代で坂本龍馬がはいていたような編み上げの革靴を買ったなどという話も聞きます。<br /><br /><br />


しかしながら、先に述べたように坂本龍馬の姿というのはかなり作られた部分が多いことで有名です。<br /><br /><br />


ことの始まりは、薩摩、長州、土佐、肥前の力関係のようです。<br /><br /><br />


といいますのは、薩摩藩と長州藩を仲介して薩長同盟を結ばせることに奔走した坂本龍馬の出身地土佐が、明治維新後はなかなか表舞台に出られないということから起こったものもあるのです。<br /><br /><br />


つまり、政府の中枢に入り込めない土佐藩は、結局政治的にはどうでもいいような（といってはなんですが）宮内省（当時は宮内庁ではなく宮内省でした）くらいにしか居場所がなかったのです。<br /><br /><br />


宮内省はもちろん天皇および皇族の事務を行うわけですが、決して権力的に強いわけでも、天皇に近いわけでもありません。<br /><br /><br />


というのは、天皇親権である明治政府は「元老」という、天皇への助言を行い補助する役職が歴然と存在していたからです。<br /><br /><br />


そんな背景もあってか、宮内省で働く土佐藩出身の人間は、話をでっち上げたというのです。<br /><br /><br />


つまり、坂本龍馬が皇后だか皇太后だかの夢枕に立ったというのです。<br /><br /><br />


それで一躍有名になったのが坂本龍馬なのです。<br /><br /><br />


ですから、坂本龍馬の経歴がどのようなものなのかも実ははっきりしていませんし、かの有名な中岡慎太郎との最期もはっきりしないのです。<br /><br /><br />


そんな坂本龍馬ですが、彼をここまで有名かつ英雄に描いたものとした功労及び責任は司馬遼太郎氏にもあると言えるでしょう。<br /><br /><br />


西原理恵子氏が「司馬のふかしが！！」とおっしゃっていますが、これは本当で、かなり司馬遼太郎氏の「ふかし的記述」を真実の歴史だと思っている輩が多いのも事実なのです。<br /><br /><br />


それは、坂本龍馬はなぜか高知県外の人たちに人気がたかいというところからもうかがえそうです。<br /><br /><br />


地元の人々は、やはり昔から伝わる「真の姿」をおぼろげながらでも受け継いでいますから、「司馬のふかし」に気づくことも多いのだと思われます。<br /><br /><br />


ただし、坂本龍馬を心の師だと考えている方々に罪はありません。歴史上の人物は多かれ少なかれ虚像を携えているものなのです。ただし、小説と歴史との区別をすることは知識人として必要なことですのであしからず。]]></description>
<link>http://wiki.yahooyahoo.info/2008/01/post_51.html</link>
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<pubDate>Wed, 16 Jan 2008 22:07:01 +0900</pubDate>
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