明治時代とは歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

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明治時代の人物について

明治維新によって、それまでの江戸幕府の幕藩体制から明治政府による政治に転換したということもあって、歴史上、語り継がれる人物が多いですね。


歴史だけではなく、ドラマや映画、小説などでモデルにされる人物も多く、明治時代の人物の名前は、一般にも浸透していると言えます。


批判もありますが、江戸から短期間に西欧の列強国に並ぶような国家を築き上げたことは、西洋をはじめ諸外国からは「奇跡」と評価されています。アジアでもモデルケースされたりしました。


岩倉使節団
【岩倉使節団。右から大久保利通、
伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允】


この歴史上の人物【明治時代の人物】infoでは、政治だけではなく、文化などで名前を残した歴史上の人物を紹介する予定です。特に問題のないかぎり画像や地図なども利用したいと考えております。

簡単なエピソードなどもまじえて人物にせまることができれば幸いだと考えております。

西郷隆盛像は本人ではない

西郷隆盛像ほど、有名な人物像はないのではないかと思うくらい有名な銅像が、東京都台東区上野の上野公園にあります。


待ち合わせ場所としても有名で、西郷さんの足下にはいつも何人もの人たちがいます。


この西郷隆盛像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)で、1898年12月18日に東京上野恩賜公園(当時上野公園は東京上野恩賜公園という名前でした)で除幕式が行われた。


ですが、この西郷隆盛像、本人に似ていないというのは大変有名なことらしいです。


というよりも、経緯が複雑なのですが、最初に西郷隆盛の肖像画から説明しましょう。


「西郷隆盛ってどんな顔か思い浮かべてみて」


と聞いたら、おそらく10人中9人はそれを思い浮かべるであろうあの顔。


そう、教科書や資料集に載っているあの顔ですね。


あの肖像画を描いたのがキヨッソーネというイタリア人画家であることは大変有名です。


しかし、キヨッソーネ自身は西郷隆盛と面識がなかったのです。


しかも西郷隆盛本人の写真もありませんでしたから、仕方なく(かどうかはわかりませんが)、西郷隆盛の弟である従道と従弟の大山巌の顔つきを合わせて描いたそうなのです。


つまりこの時点でもう本人ではないわけです。


それをもとに銅像を作ったからあーら大変、全くの別人になってしまったわけです。


ちなみに西郷隆盛像の除幕式に招待された西郷夫人の糸子さんは、銅像を見て「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と驚き不機嫌になったといわれています。


私なんかはこの話を聞いて、「ああ、大山巌ってこんな感じだったんだ」と別の解釈をさせていただきました(笑)


だって、大山巌って、名前はとても有名なのに、どんな顔だったかはあまり知られていないですよね?

田中正造と渡良瀬遊水池

栃木県には足尾銅山がありました。


江戸時代には国が管理していたのですが、明治時代になって官営工場が払い下げられるようになると、民間(古河財閥の前身)に払い下げられました。


20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した銅山ですから、かなり優秀な鉱山だったといえるでしょう。


田中正造というと、公害と闘った人というイメージが強いですが、なぜ科学の進歩していなかった当時に、公害に目を向けたのでしょう。


最初は、地元農民もそれが公害(もちろん公害という言葉もしらなかったでしょうが)であることには気づかなかったようです。


ただし、足尾銅山から流れている川が洪水になると、その年の田畑の収穫がガクンと減る。それどころか、どうも育たない。そういうことに気づいてはいたのです。


しかし、農民たちにはどうすることもできませんでした。


それを見た田中正造は、どうも洪水になることと、作物の不出来には関係があるのではないかと思ったらしいのです。


田中正造は衆議院議員になり、やっとのことで、国に現状を訴えます。しかし、なかなか耳を貸してもらえません。


それでも、訴え続ける田中正造のために国が起こした行動は、遊水地を作ることでした。


遊水地を作れば、洪水が防げるからよいだろう、というのが明治政府の考えでした。


しかしながら、遊水地を作るということは大きな池を人工的に作ることと一緒ですから、遊水池を作るために水の中に沈む村が必要でした。それが谷中村です。


田中正造が訴えたかったことは、付け焼き刃の対策ではなくて、足尾銅山から流れてくる有害物質(カドミウムや硫酸など)を出さない政策を講じなければ、それでは根本的解決にはならないと言いたかったのです。


しかし、世は富国強兵政策のまっただ中。国はそんな地方の名も知らぬ場所のことには関心がありません。遊水池を作ることが、国の精一杯の関心だったのです。


もう国に頼っているだけではダメだと思った田中正造は、明治天皇に直訴します。


普通でしたらこういった行為はかなりの重罰なのですが、精神的病であるという判断をされ、罪は軽くて済みました。


田中正造はそれ以後も活動を続けます。それも私財を投げ打っての活動ですから、田中正造が亡くなったときには、本当になんにも残らなかったと言われています。


持ち物といえば、いつも持ちあるく布袋の中にちり紙が少々。それが田中正造の最後でした。


こういった田中正造の活動を、後世の人たちは「最初に公害に立ち向かった人」と言うようになりました。


渡良瀬遊水地(地図を縮小すると分かりやすいです)

言文一致

小説の会話の部分に口語体を使用する書き方自体は江戸時代からあったのですが、文章表現を口語にする運動が始まったのは、明治初年からと言われています。


多分に文明開化の影響もあったと思われますが、明治時代の言文一致を語るうえで欠かせない小説家は、二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉の三人です。


「浮雲」「あひびき」などの作品で知られる二葉亭四迷は、内容と表現の一致を求めようとする作家的自覚から、小説の地の文を「だ」調で書き表しました。


これは、小説文体上の一大革命と言えるものでした。


同じ頃、「武蔵野」「胡蝶」らの作品で有名な山田美妙は「です」調の言文一致体を使って小説を書いていたのですが、1920年代以降は再び雅俗折衷体が盛んになってきます。


そういった経緯で言文一致体が復活するのは、尾崎紅葉が「多情多恨」(明治29年)などで「である」調が洗練されたものとなったあとのことです。


明治40年代に入って、近代小説唯一の文体として確立して、白樺派の作家たちによって完成を見ることになります。

ポーツマス条約と日露戦争の影響

ロシアと十分に戦う国力を有していなかった日本は、国民生活もしだいに苦しくなっていった。ロシアもまた国内で皇帝セイジに反対する革命運動がおこり、戦争の継続が難しくなってきていた。


他方アメリカ合衆国は中国進出をもくろんでいたので、ロシアか日本の一方的な勝利を望んでいなかった。


そこで、アメリカ合衆国大統領セオドア=ルーズベルトが講話を仲介することになった。


日本にもアメリカのもくろみは分かっていたのだが、これは渡りに舟の状態だった。それくらい日露戦争後半は苦戦を強いられていたのである。


講和条約はアメリカ合衆国のポーツマスで開かれ、1905年9月、ポーツマス条約が結ばれた。


ポーツマス条約の内容は以下のようなものだった 1 ロシアは、韓国における日本の優越権を認める。

2 遼東半島南部の租借権や南満州の鉄道の権利を日本に譲る。

3 樺太(サハリン)の南半分を日本の領土とする。

4 沿海州、カムチャッカ沿岸の漁業権認める。


上の条約内容を見ても明らかなように、日露戦争においては一応日本が戦勝国ということにはなったが、賠償金がまったく得られなかった。日清戦争とは大違いである。


ポーツマス条約で賠償金がまったく得られなかったことが分かると、日比谷焼き打ち事件(1905年9月)など、講和に対する反対の暴動運動が起こった。


しかしながら、南満州の資源が入るようになったことから、それまで軽工業中心の産業だったものが重工業の発達をみ、市場も広がった。


日露戦争に勝利したということで、日本の国際的地位があがったが、反面、それ以後は帝国主義的な発展をなすことになる。

農村の保守化

国会開設を目前にして、政党再興と旧民権派結集をめざす大同団結運動が1886年に起こった。


翌年には条約改正問題の紛糾を機として、地租軽減、言論集会の自由、外交失策の挽回を要求する三大事件建白運動起こることになる。


三大事件建白運動で自由民権運動の再建を図ろうとしたのだが、政府は欽定憲法(大日本帝国憲法)の発布を控えて、1887年末には戒厳令同様の体制を整えながら、保安条例を発し、一挙に弾圧した。


こういった政局の中で、農村では寄生地主制が発展することになる。


1890年代半ばには寄生地主が農地と農家のおよそ半分を支配するようになり、農業の支配的な生産関係として確立をみる。


これにより、農村は保守化し、1889年の大日本帝国憲法発布後の明治憲法体制を安定させることにもなる。

自由民権運動は敗北したのか

国会開設を目指す自由民権運動は、政党結成の主張や憲法案の準備がととのう先に、政府が施行した新聞紙条例(1875年)などの言論弾圧、及び集会条例(1880年)での結社・集会の弾圧にもめげず発展していた。


一方政府内部では、1878年に大久保利通が死去して以来対立しがちであった。


特に不兌換紙幣の乱発によるインフレのために財政が破綻したことで、大蔵卿大隈重信への非難が高まっていた。


憲法について意見を徴された諸参議が伊藤博文や井上馨(長州閥)の漸進論に終始した中で、ひとり急進論である大隈重信が国会の即時開設と議院内閣制の採用を建議したことは、かえって岩倉具視(公家派閥)と伊藤博文を中心に政府首脳が部が結束する機会となり、その結果明治十四年の政変が起こることになる。


明治十四年の政変で追放された大隈重信は下野し、在野で活躍することになった。


こうして薩長閥は国会開設運動から主導権を奪い返すに至る。


しかも、新大蔵卿である松方正義はデフレ政策を強行し、農村の不況は貧農民権ともいうべき激化の諸事件(秩父事件など)を頻発させることになる。


また、とき同じくして起こった朝鮮半島の情勢緊張が、民権よりも国権が優先するのだという考えを生んだともに、自由民権運動は深刻な分裂に追い込まれていったのである。

歴史の中の明治時代について

明治時代について調べていますと、当たり前のことですが、明治が歴史の中の一部なんだと認識したりします。

江戸時代がなければ、明治時代は存在せず、また明治時代がなければ大正時代は存在しないというように、歴史の流れの重要性を感じました。


明治維新に登場した人物についても、その人物の祖先に影響を受けていたりして、一部だけ切り放して見ると、間違いをおかしそうです。まあ、当たり前ですが、一部だけでしかコンテンツはつくれませんので、ある程度は仕方のない部分もあるのですが