薩摩と会津の公武合体派が、中川宮朝彦親王らの朝廷内公武合体派と結び朝廷を動かした事件。
その結果幕府に攘夷を命じさせた、長州藩を主体とする急進的な尊王攘夷派を京都から追放した。
それまで長州藩は宮門警備を行っていたが、それを解任され、三条実美、沢宣嘉ら急進派の公家も京都から追放されることになった。この一件を七卿落ちという。
三条実美は長州に七卿落ちしたが、王政復古の後、議定(ぎじょう)となった。また1871年から85年までは太政大臣をつとめている。
征韓論の収拾に苦慮したが、1884年には公爵となり、1885年以後は内大臣をつとめた。