岩倉使節団は欧米に歓迎されたのか歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

岩倉使節団は欧米に歓迎されたのか

明治新政府は、1871年の廃藩置県の直後、岩倉具視を大使に、大久保利通と木戸孝允らを副大使とする使節団を欧米に派遣しました。


これがいわゆる岩倉使節団ですが、この使節団には政治家だけではなく、約40人の留学生も加わっています。


使節団の目的は、幕末に締結した不平等条約の改正の下交渉でした。


岩倉使節団は、欧米では意外と歓迎されていまして、ずいぶんと親切に扱ってもらったようです。そんなの当たり前じゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、当時の日本はヨーロッパにとっては単なるアジアの一小国。それも長いこと鎖国をしていた「遅れた国」の代名詞のようなものです。それを歓迎してくれたというのは、いったいどういうことなのでしょうか。


それは、第一には服装なんですね。伊藤博文などは洋服を着ていましたが、岩倉具視は羽織袴姿で、髪はまげを結っていました。同行した多数の人間がそのころは着物を着ていたことは容易に想像できます。


ヨーロッパ人にしてみると、それはまごうことなき「初めて見る人々」。もちろん、ヨーロッパの人たちも浮世絵などで日本の風俗などはおよそ知っていたでしょうが、それを版画で見るのと実物をみるのとでは印象が違うに決まっています。


つまり、日本人の服装や礼儀(たとえばお辞儀をするとか)のオリエンタルスタイルに興味をしめして親切に扱ってくれたのではないかと思われます。


実際、明らかな人種差別的卑下した扱いは受けていないようです(そりゃあ、興味自体は野蛮なものにたいするものですから多少の無礼はあったでしょうが)。


ただし、条約改正の話になると一転して「改正はできない」の一点張りをされました。


なぜかは至極当然なものであって(?)、「憲法や法律もない国と対等の条約は結べない」というものです。その他、産業やインフラの遅れも指摘されたことでしょう。


しかし、転んでもただで起きないのが大和魂。ということで、使節団の人々はヨーロッパの産業、政治、社会情勢などを熱心に視察します。そして、日本の内政の充実と政治制度の整備の必要性を痛感するのでした。


岩倉使節団は、ヨーロッパやアメリカ合衆国を巡ったのち、1873年に1年10ヶ月の視察を終えて帰国しました。