写生文歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

写生文

高浜虚子は正岡子規の弟子であることで有名です。


また、子規の没後は「ホトトギス」を主宰し、そこに夏目漱石の「吾輩は猫である」を発表させたことでもよく知られています。


虚子自身、俳句だけでなく、写生文や小説も書いていたのです。


写生文というのは、1900年(明治33年)ころ、正岡子規が提唱したもので、その後「ホトトギス」を舞台に、高浜虚子らが中心になって推進しました。


これは写実論を基本とした文章革新運動でした。


「吾輩は猫である」も、もともとは写生文の実践の一例として「ホトトギス」に発表されたものです。


当初は短編でしたが、この作品が好評を呼んで、新聞連載で長期化したものです。


写生文としては、このほかに、伊藤左千夫の「野菊の墓」や長塚節の「土」があります。


ちなみに新聞社の依頼で、長塚節との間を仲介したのは夏目漱石ですが、夏目漱石自身「土」をたいへん評価しており、のちに「余の娘が年頃になったらぜひ読ませたい」とまで言っている名作です。