自由民権運動の裏事情歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

自由民権運動の裏事情

板垣退助は自由民権運動で有名な政治家です。


民撰議員設立の建白書を政府に提出を政府に提出したことで、自由民権運動の口火が切られたといっても過言ではありません。


板垣退助らは土佐(高知県)で立志社を結成して運動を進めていくことになります。


ですが、これにはちょっとした裏事情があったことも否めません。


つまり、倒幕して王政復古の時代になり明治新政府ができたのはいいけれど、そこで行われている政治は藩閥政治だったのです。


藩閥政治というのは、藩ごとの勢力関係を無視することができません。


その藩閥政治で力を握ったのが、薩摩藩と長州藩です。


倒幕の一躍をになったのが薩長土肥であることを考えれば納得のいくことです。


しかしながら、薩摩藩出身者と長州藩出身者は要職に就けましたが、土佐藩の人間はほとんど要職に就くことができなかったのです。


要職に就けなければ、せっかく倒幕の一躍を担ってもなにもよいことはありません。土佐藩が取り持たなかったら、薩長同盟すら結ばれていたかどうか危ういのです。(両藩ともプライドの高さにおいては天下を競っていましたからね。別に土佐藩にプライドがなかったというわけではないですよ。これは言っておきます)


土佐藩は幕末あんなにがんばったのに、要職には就けず、宮内省などというどうでもよい(といっては失礼だが、権力の場からはほど遠い)ところにしか回されなかったのです。


それで板垣退助が「これじゃダメだ。それに不公平だ。ズルいじゃないか!」と思っても仕方ないでしょう。


なんとか自分たちの意見も国政に反映させるために自由民権運動を行い、1881年にはフランスの民権思想に影響を受けた、急進的な自由党を設立することになります。


それで元土佐藩の人間がすぐに権力の座に就けたわけではありません。


内閣制度(初代総理大臣は伊藤博文)に移行しても、9省のうち農商務省のひとつだけしか土佐藩のポストなりませんでした。(ちなみに長州藩3省、薩摩藩は4省のポスト。幕臣だった榎本武揚が逓信省大臣のポスト)


そのひとつのポストである農商務省大臣は谷 干城 (たに・たてき)でした。


歴史にはけっこう生々しい感情的な側面もあるのです。