徳川慶喜の思惑と大久保利通
徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、これで名目上、徳川幕府は滅亡したということになる。
しかし、徳川慶喜にはちょっとした(いや、かなりというべきか)思惑があった。
なぜ、幕府の将軍ともあろうものがこんなにすんなり大政奉還をおこなったのか? その謎は慶喜の思惑にあるといえるかもしれない。
つまり、慶喜にとっては、幕府の存続よりも「自分の権力の存続」の方が大切だったのだ。
だから、倒幕派が兵をあげるようなおおごとになるまえに、大政奉還を行って、一応政権を朝廷に返すという表面上の対策をとりながら、新しい政権内で実権を握ろうとしていたのである。
ただし、こんなみえみえの猿芝居にだまされるような倒幕派ではなかった。
大久保利通と岩倉具視はいちはやくこのもくろみに気づき、結局慶喜の思い通りにはならなかったのである。
しかし、徳川慶喜にはちょっとした(いや、かなりというべきか)思惑があった。
なぜ、幕府の将軍ともあろうものがこんなにすんなり大政奉還をおこなったのか? その謎は慶喜の思惑にあるといえるかもしれない。
つまり、慶喜にとっては、幕府の存続よりも「自分の権力の存続」の方が大切だったのだ。
だから、倒幕派が兵をあげるようなおおごとになるまえに、大政奉還を行って、一応政権を朝廷に返すという表面上の対策をとりながら、新しい政権内で実権を握ろうとしていたのである。
ただし、こんなみえみえの猿芝居にだまされるような倒幕派ではなかった。
大久保利通と岩倉具視はいちはやくこのもくろみに気づき、結局慶喜の思い通りにはならなかったのである。
京都が首都にならなかった理由
鳴くようぐいす平安京(794)という年号の覚え方は小学生でも知っているでしょう。
しかしながら、その後日本史自体が武家社会、及び近代に現代にすすむに従って、「鳴くようぐいす平安京」の意味が薄らいでいっている気がします。
これはどういうことかというと、平安京までは様々な場所に遷都が行われました。それこそ十指に余るほどです。
しかしながら、平安京のあとには遷都が行われましたか?
そうなんです。平安京は794年から幕末までちゃ〜んと都であり続けたのです。つまり1000年以上も京都が都だったのです。
ここで、「え? それは嘘だ!!」という方のために抗弁しておきますと、確かに一時的に遷都が行われたことはありました。福原遷都です。(南北朝動乱の時期には吉野朝廷もありました)
平清盛が強引に福原(現神戸市)に遷都を断行したのが1180年6月です。しかしながら公家たちの猛反対にあい、結局同年11月には京都に遷都しなおしているのです。ですから厳密には794年から一度も遷都されていないというのは間違いなのですが、まあ、半年にも満たない遷都ですから、ここでは話をおいておきます。(吉野朝廷についてもどうようのこと)
さて、倒幕後、江戸城に将軍はいなくなったわけですから、そうなると王政復古により、明治天皇が日本のトップに立つことになりました。そのときはもちろん明治天皇は京都にいらっしゃいました。ですから、京都の人々としては再び京都が政治の中心地になると思って大喜びしたのです。
明治政府が京都にあった期間も約一年と短いながらあったことはあったのですが、結局「東京」と名前を改めた江戸に移ってしまったのです。
つまり、京都は政治の中心地=首都になることはできませんでした。強いていえば一年弱しか首都になれなかったのです。
この東京遷都を実行したのが、大久保利通なのです。(京都の敵と言ってもよい存在でしょう)
大久保利通の意見としては、「天皇は雲の上の存在であってはいけない」というものでした。つまり、これからは人民の中に出てゆかねばならないというわけです。そのためには古い慣習に満ちた京都を出て、遷都するのが得策だというものです。
つまり、遠回りに言ってはいますが、朝廷を実際的な権力にするデモンストレーションが東京遷都というわけです。
もちろん、そのような政治的意図もあったのは事実なのですが、東京(江戸)及び関東の人たちの気持ちも無視できなかったことはいうまでもありません。
なにしろ1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いてから、200年以上もの間、日本の政治の中心地だったわけです。そして人口も多かった。かつ、まだ旧幕府に気持ちが傾いているころも否めなかったのです。
つまり、この東京遷都には、新政府は江戸市民の心を早急につかむ必要があったのです。
かといって、京都の人たちも黙ってはいません。もちろん、東京遷都には反対したのです。しかし結果的に天皇が東京に移ったことに対して地子銭(地税)の一部免除と、15,000両の「産業基立金」で手打ちとなり、解決したということになりました。
しかしながら、その後日本史自体が武家社会、及び近代に現代にすすむに従って、「鳴くようぐいす平安京」の意味が薄らいでいっている気がします。
これはどういうことかというと、平安京までは様々な場所に遷都が行われました。それこそ十指に余るほどです。
しかしながら、平安京のあとには遷都が行われましたか?
そうなんです。平安京は794年から幕末までちゃ〜んと都であり続けたのです。つまり1000年以上も京都が都だったのです。
ここで、「え? それは嘘だ!!」という方のために抗弁しておきますと、確かに一時的に遷都が行われたことはありました。福原遷都です。(南北朝動乱の時期には吉野朝廷もありました)
平清盛が強引に福原(現神戸市)に遷都を断行したのが1180年6月です。しかしながら公家たちの猛反対にあい、結局同年11月には京都に遷都しなおしているのです。ですから厳密には794年から一度も遷都されていないというのは間違いなのですが、まあ、半年にも満たない遷都ですから、ここでは話をおいておきます。(吉野朝廷についてもどうようのこと)
さて、倒幕後、江戸城に将軍はいなくなったわけですから、そうなると王政復古により、明治天皇が日本のトップに立つことになりました。そのときはもちろん明治天皇は京都にいらっしゃいました。ですから、京都の人々としては再び京都が政治の中心地になると思って大喜びしたのです。
明治政府が京都にあった期間も約一年と短いながらあったことはあったのですが、結局「東京」と名前を改めた江戸に移ってしまったのです。
つまり、京都は政治の中心地=首都になることはできませんでした。強いていえば一年弱しか首都になれなかったのです。
この東京遷都を実行したのが、大久保利通なのです。(京都の敵と言ってもよい存在でしょう)
大久保利通の意見としては、「天皇は雲の上の存在であってはいけない」というものでした。つまり、これからは人民の中に出てゆかねばならないというわけです。そのためには古い慣習に満ちた京都を出て、遷都するのが得策だというものです。
つまり、遠回りに言ってはいますが、朝廷を実際的な権力にするデモンストレーションが東京遷都というわけです。
もちろん、そのような政治的意図もあったのは事実なのですが、東京(江戸)及び関東の人たちの気持ちも無視できなかったことはいうまでもありません。
なにしろ1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いてから、200年以上もの間、日本の政治の中心地だったわけです。そして人口も多かった。かつ、まだ旧幕府に気持ちが傾いているころも否めなかったのです。
つまり、この東京遷都には、新政府は江戸市民の心を早急につかむ必要があったのです。
かといって、京都の人たちも黙ってはいません。もちろん、東京遷都には反対したのです。しかし結果的に天皇が東京に移ったことに対して地子銭(地税)の一部免除と、15,000両の「産業基立金」で手打ちとなり、解決したということになりました。
01.内閣総理大臣