黒田清隆歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

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大日本帝国憲法の特色

1889年に発布された大日本帝国は天皇が国民に下付するという形で制定された欽定憲法である。


大日本帝国憲法では主権が天皇にあることを基本として、官制の制定、文武官の任免、宣戦・講和の決定と条約の締結、緊急勅令の発布・議会の召集・衆議院の解散権などは天皇大権とし、議会の関与できない事項になった。


天皇大権の中心をなす陸海軍の統帥権は議会、政府からも独立することになった。


政府の官吏は天皇の官吏であり、国務大臣も天皇に責任を負うもので、議会と国民に対する責任は明確にされていなかった。議会にかけることなく発布できる命令の範囲も広かった。


議会は、特権階級(皇族、華族、勅撰議員など)から構成される貴族院と、制限選挙で選ばれる公選議員から構成される衆議院があった。


しかしながら、衆議院には予算の先議権があるだけで、貴族院と権限はかわらなかった。


国民の基本的権利として信教の自由、言論集会結社の自由が明文化されたものの、どれも法律の範囲内と制限がつけられた。(これを法律用語で「法律の留保」という)


つまり、法律の改定によって、国民の権利はいかんともすることができたのである。(もちろん権利の削除の方が多かった)

五稜郭での黒田清隆

五稜郭まで倒幕側と幕府側のもつれ合いが続いたというのは有名です。


しかしながら、ここには損得を抜きにした(そんなことは実際ありえないと思うのだけれど)人間関係があったこともいなめません。


それが黒田清隆と榎本武揚の関係です。


黒田清隆は倒幕側の指揮をとり、榎本武揚は幕府側の指揮を執っていました。


お互い敵味方なわけですし、黒田清隆としてはなにがなんでも勝たなければならないという状況にありました。


しかしこの黒田清隆は榎本武揚を大変に尊敬していたのです。


その榎本武揚を五稜郭にまで追いつめたものの、相手への敬意は忘れられませんでした。


あきらかに幕府側の方が不利であり、幕府側には食料も足りなければ水もたりない、もろもろのものが足りなかったのです。


勝敗は明らかでした。しかし、黒田清隆は幕府側に伝令を送り、「食料はありますか? 水は足りていますか?」と榎本側(多分黒田清隆にしてみれば、それは「幕府側」ではなく「榎本側」という気持ちだったのでしょう)に十分な気遣いを示したのです。


榎本武揚も武士であり、オランダに留学した才英でもありますから状況はつかめていたはずです。しかし、武士は主君のために忠義を尽くすのが生きる道です。


結局は倒幕側の勝利になり、江戸幕府は身ぐるみをはがされる結果になりましたが、五稜郭ではこのような人間ドラマも繰り広げられていたのです。


その後は、みなさんご存知の通り、黒田清隆も榎本武揚は明治新政府で活躍することになります。

4つの89

四つの89という言葉をご存知でしょうか。


これは社会科学で主に使われる言葉ですが、1689年、1789年、1889年、1989年の年代に起こった重要なことがらの年代を示しています。


1689年は権利の章典(イギリス)、1789年はフランス革命(フランス)、1889年は大日本帝国憲法の発布(日本)、1989年はベルリンの壁の崩壊(ドイツ)のことです。


この3つ目に日本が入っていますが、憲法発布というのは一大イベントです。それは今も昔も変わりません。では、皆さんは1989年の内閣総理大臣の名前を知っているでしょうか。


そう、それはもちろん黒田清隆です。


しかしながら、黒田清隆は鳥羽伏見の戦いでは有名ですが、大日本憲法発布当時の総理大臣であるということのインパクトがないのです。


いったいこれはなぜなのでしょう。


憲法制定の中心人物が伊藤博文であることは有名ですし、伊藤博文が初代総理大臣であることもとても有名です。


それに比べると、黒田清隆というのはネームバリューがあまりにも低い気がするのですが、みなさんはどうお考えになりますか。