伊藤博文歴史上の人物【明治時代の人物】

歴史上の人物を紹介します。明治時代の人物を簡単に説明します

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立憲政友会

伊藤博文は、地方の有力者や都市の実業家を参加させて、総裁の統率力の強い政党を作ろうと計画した。


伊藤派の官僚もそれに賛同を示し、また、衆議院での多数確保を目指す旧自由党系の憲政党が吸収されるかたちとなって、1900年に結成することになる。


これは国会期成同盟以来の革命政党の伝統に別れを告げることも意味していた。


やがて日露戦争がおこると、それ以後の国内政局において、衆議院の多数派として政局安定に貢献し、体制政党の機能も果たすようになっていった。

伊藤博文が枢密院で作った憲法

伊藤博文は長州藩の出身です。もとの身分は武士でしたが、下級武士でした。


その伊藤博文がここまで名が通っているのは、初代総理大臣であることと、大日本帝国憲法の制定の中心となったからでしょう。


しかしながら、大日本帝国憲法というのは、議会で定められたわけではありません。


憲法草案を審議するために枢密院を設置し、枢密院初代議長も伊藤博文なのです。


これがどういうことを表すかというと、大日本帝国憲法は欽定憲法(天皇が定めた憲法ということ)であるという建前をとっていますすが、実のところは伊藤博文とその周辺の人間が枢密院という「別荘のようなもの」の中で、こっそりと身内だけで決めてしまったようなものなのです。


こういったことをふまえて、大日本帝国憲法の制定を考えると、歴史の別の面が見えてきます。

最初に河豚を食べたのは

江戸時代、武士は河豚を食べることを禁止されていました。


これは豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(1592年)の際、九州に集結した武士たちの多くがフグ中毒で死亡するという事故があったからです。


ですから、いつ何時とも気を抜けない(?)武士は万一のことがあってはならないとフグを食べることができなくなったわけです。


松尾芭蕉は優れた俳人であるとともに武士でもありましたが、彼も「河豚汁や鯛もあるのに無分別」という歌を詠んでいます。


フグ禁止令が解禁されたのは明治22年のことですが、それは伊藤博文(武士階級出身)が河豚を食べたあとのことになります。


伊藤博文は山口県(長州藩)の出身ですから、下関のおいしい河豚を食べたかったのでしょう。

伊藤博文の画像と人物

伊藤博文と言いますと、明治憲法の起草にもかかわり、初代総理大臣としても有名な人物ですね。

歴史小説がお好きな方には、吉田松陰の松下村塾時代の話などが人気のようです。

ちなみに、伊藤博文は農民としてうまれ、のちに下級武士の身分を取得しています。伊藤博文と改名したのは、明治維新後でした。いろいろな意味で評判の多かった人物だと言われています。歴史に残る人物であったことに異論はないようですが


伊藤博文
東洋文化協會 (The Eastern Culture Association)